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アクタス1993年2月号 ▼探偵の人間万華鏡▼②

若年夫婦の破局の構図

赤ん坊を抱きあげない夫

 「最近、夫の行動がおかしいんです。確証はないんですけど、なんとなく浮気をしているようで…。調べてください。」

  夫の素行調査の依頼に訪れた松任市内に住む主婦片桐裕子さん(23)=仮名=は、張りのない声で呟くようにそう言った。心に悩みを抱えている為か、実際の年齢よりずっと老けて見える。
  夫は金沢市内の大手企業に勤める24歳のサラリーマン。二人は結婚して一年半になり、生後10か月の赤ん坊がいる。出産のため金沢の実家に戻っていた二か月間、夫は一度も見まいに来ず、電話すらかけてこなかった。
  「もしや」の不安が脳裏をかすめたが、裕子さんはそのつど自分自身に言い聞かせていた。
  「仕事が忙しくて、きっと気持ちに余裕がないだけなんだわ」
  ところが出産を終え、赤ん坊とともに自宅に戻ってみると、夫の態度は以前とは全く違っていた。裕子さんのちょっとしたしぐさに嫌味を言い、トゲのある言葉が目立つようになったのである。
  「いやだね。子供を産むと所帯じみちゃって」
  暴言を浴びせられながらも、裕子さんは自分自身を慰めていた。
  「この人には父親になった意識がないのかしら。でも、一緒に暮らしていれば少しずつ父親の自覚も生まれてくるはず」
  しかし、その後も夫は一度も赤ん坊を抱きあげようとしないばかりか、夜泣きしたときには「眠れない」といら立ち、別室で寝ることが度重なった。 更に外泊も目立つようになり、夫婦が言葉を交わすことも極端に減った。 些細なことで口論になった挙句の捨てぜりふは「子供を連れて実家に帰れ」だった。

家に閉じこもる妻に不平

 むろん、夫は結婚当初から冷淡であったわけではない。2人は金沢市内のスポーツクラブで知り合い、約三カ月の交際を経てゴールインした。新婚旅行先のヨーロッパで撮った写真には、頬を寄せ合うアツアツのカップルが写っていた。一体どこで歯車がかみ合わなくなったのか。
  夫は金沢市内の新学校から東京の一流私大に進んだが、一人っ子のため、地元で就職し、結婚前までは両親と同居していた。しかし、せめて新婚時代は二人きりの生活を味わわせてやろうとの親心から、両親が実家の近くに2LDKのマンションを買い与えた。裕子さんは家事に専念するため、結婚を機にそれまで勤務していた証券会社もやめた。
  新婚間もないころは、恋愛時代の延長で週末になれば一緒にドライブに出かけたり、片町で友人を交えて明け方近くまで飲んだり、カラオケボックスに行くこともあった。そんな甘い新婚生活が変わったのは、裕子さんの妊娠が分かってからである。母親となる自覚に目覚めた裕子さんは、胎内に宿った小さな命の事を第一に考え、母体に影響を及ぼすことは極力控えることにした。当然気晴らしに飲みに出かけようという夫の誘いも断り、夜の街へ足を延ばすことは一切しなくなった。
  そんな裕子さんに夫は半ば冗談のように不満を漏らした。
  「たまには付き合ってくれよ。赤ん坊の事で頭が一杯で、僕のことを忘れてしまったのか。それとも嫌いになったのか」
  当初裕子さんは夫の不平を本気とは受け止めず、聞き流していた。
  「あなた、まだ生まれてもいないあかちゃんに嫉妬してるんじゃないの」
  しかし実は、夫の心の中では子供っぽい独占欲が目を覚まし、独身時代の自由奔放な生活を求める欲望が頭をもたげ始めていたのである。

派手タイプの女性と密会

 裕子さんが夫の浮気を疑い、調査を依頼したのは、外泊が週に2度、3度と頻繁になったからだ。依頼を受けた数日後、素行調査に入った。
  午後5時、勤務先の駐車場で夫の赤いスポーツカーを確認し、待機していたところ、同7時半ごろになって、本人が会社から出てきた。そのままいったんは帰宅したものの、約20分後に自宅を出て再び車に乗り込んだ。車は金沢市南部の新興住宅地を通り抜け、野々市市の小さな2階建アパートの前で止まった。夫は灯りのついていない201号室のドアのカギを開け、部屋の中に姿を消した。
  すぐには出てくる気配がないため、裕子さんに連絡したところ、夫は離婚届の用紙をテーブルの上に放り投げ、訳も言わずに、いきなり「判を押せ」とにらみつけると、行き先も告げずに外出したという。
  アパートの前で監視を続けていると、午後八時五十分ごろ、紺のボディコン姿の若い女性が車で乗り付けた。背が高く、ストレートの長い髪に、赤いマニキュア、金のブレスレット、アンクレットをした派手なタイプであり、ドアチャイムを鳴らし、201号室に入って行く。約二時間半後、部屋を出てきたのは女性 一人であり、この夜、夫は一人でアパートに泊まった。
  その後の調べで、アパートは夫が愛人との密会場所として借りたもので、時期は裕子さんが出産準備のため実家に戻ったころと分かった。
  数日後、再び勤務先の前で待機し、夫を尾行した。会社近くのゴルフ練習場でくだんの若い女性と落ち合い、打ちっ放しを楽しんでから、近くのレストランでタ食をとり、松任市内のネオン輝くモテルの一室に消えた。若い女性はまぎれもなく不倫相手だった。
  調査結果を裕子さんに報告したところ、裕子さんは覚悟していたかのように肩を落とした。
  「やはり夫には愛人がいたんですか。夫の心が離れてしまった以上、もう生活を共にしていく自信はありません」
  風の便りによると、その後、裕子さんは離婚の意思を固め、家庭裁判所に離婚調停を申し立てたそうだ。

養育費20年送金の足かせ

 離婚の原因はもっばら自己中心的な夫の浮気にあり、裕子さんに何ら落ち度はなかった。しかも、結婚してからは仕事を辞めて家事に専念していたため、改めて自活の道を探し、女手ひとつで子供を育てなければならなくなった。裕子さんは弁護士とも相談し、慰謝料として七百万円、養育費として毎月十五万円を夫に請求することにした。
  家裁での四度にわたる調停の結果、夫が慰謝料五百万円を支払い、養育費として毎月十万円を送金する離婚調停が成立した。養育費は、子供が二十歳になるまで送金しなければならない。万一滞れば、裁判所が給料を差し押さえるといった厳しい内容であり、夫は長期にわたり重い足かせをはめられることになったわけである。不倫をした夫など有責配偶者からの離婚請求は、一部の例外を除いて法的には認められていない。裕子さんの夫の場合、離婚できたのだから、その程度の慰謝料や養 育費は当然と言うべきだろう。
  最近の若い夫婦の不倫を調査してみると、結婚後の人生設計を持たないまま気軽に結婚して子供をつくり、いとも安易に離婚に踏み切るケースが浮かび上がってくる。結婚生活の中で、”大人“として成長していくこともなく、互いの制約がつきまとう生活に飽きると、再び自由奔放な生活を求めて別れてしまうのである。
  むろん、一度の結婚がすべてというのではなく、離婚に対する社会の受け止め方の変化や、女性一人でも自活できる社会の受け皿が整いつつあることで、成熟した”大人”の男女の離婚が増加していることも事実だ。 ただし、幼い子供がいる場合、離婚は子供の成長過程に暗い影を落とす。
  裕子さんの夫は最後まで、子供の様子を気づかう言葉を口にしなかったという。父親になり切れなかった自己本位な夫と、未熟ながらも母親としての自覚に目覚めた妻。 若い二人に訪れた破局の犠牲者は幼い子供ではなかったか。

(最近の調査結果を素材にした創作です)

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